④富岡と伊藤博文、明治憲法(大日本帝国憲法)
富岡と、伊藤博文、明治憲法には密接な関係があります。密接というか、簡単に言ってしまえば、明治憲法が練られた地が富岡ということなのですが、、、
詳細を。
明治14、5年頃から富岡には、政界の要人を始めとした人々が、訪れるようになり不平等条約の改訂問題や、自由民権運動に関する案件、憲法作成作業の諸問題など山積した要件の検討会議などが、都心を避けて行われたと伝えられてる。
その為に、富岡にあった野本左衛門という人物から家を借用したのが、伊藤博文だ。
最近まで存在したこの家は、草屋根の大きな家で、海岸へ通じる道からの入り口には、立派な門を構えていて、この辺りは、近隣の屋敷と共にうっそうとしていて、異様とも思える処だったそうだ。
彼等重臣達は静かな富岡で密談密議を凝らして、休養を取るためには、昔から栄えていた金沢(八景)の東家へ出向いたものだった。その留守を狙った盗賊が、金銭と共に盗みだしたのが、憲法草案の入った鞄でしたが、裏の畑に投げ捨てられているのが見つかり、事無きを得たというエピソードもある。
その後、人々の出入りできない夏島(現在の金沢八景、野島公園近辺)に移り、草案の完成を見ました。為に、夏島憲法と呼ばれてる。その碑の写真が↑
伊藤博文について
「伸び行く富岡写真史」には、山口県の出身。松下村塾に学。明治憲法の起草者。明治維新後初代内閣総理大臣に就任以後4度首相を歴任。また貴族院議長、宮内大臣を勤む。日韓合併に努力した。明治42年ハルピン駅頭で韓人の狙撃にあい没した。夏島に移る前、富岡九十九番地の民家[野本作左衛門家]を借り憲法起草に当たった。また、博文は春畝と号し、詩文書画にも巧みであった。(以下略す)
彼らは此の頃の日本をよくしようと必死だったのだろう。日本人が考え、日本人のための国作り、さぞ前途は多難だっただろう。この憲法は昭和22年5月3日の現行憲法(日本国憲法)が施行されるまで続くこととなる。